春は華やかさと暗さが織り交った心騒がしい季節である。進学、入学等の陰に、受験浪人、就職浪人が同時進行し、昇進、降格、異動、転勤、単身赴任に伴う家庭再編成と明暗を分けながら、それぞれの期待と不安を重ねた移ろいは日替わりメニューのような天気の変化に似て、なんとなく平常心を失うものである。

たまたま縁ある娘さんの就職祝いに、ささやかな一夕を若者の集うパブで過ごした。アップテンポのBGMと、周囲を気にしない声高の会話に満ち溢れた雰囲気に、なんとなく場違いと居場所の悪さを味わいながらも、チョット気取って「ツゥ、フィンガー」などと調子を合わせていた。ところが、聞くともなしに耳に入る傍らのグループの会話に、しばしば「いいトシをして」という言葉が出てくる。周囲を見渡すと「いい年」に似つかわしい半白痩身はわが身のみである。普通 なればこの程度の文句にこだわるわけではないが、なんとも心騒がしい春の季節とパブというTPOのせいで、一瞬でもヒッカカリを覚え、傷ついた気分になったのは否めない。

しかし、若い連中を非難する気持ちはさらさらない。彼らにとって「いいトシをして」という「いいトシ」の年代層は、たまたま彼らより年配者であり、われわれ活年層のみを対象にしているわけではなく、また深い悪意に満ちたものでもない。それだけに会話の中で接頭語としてなに気なく使われ、慣用化されていることになんら抵抗感、拒絶感を感ずることなく若者の言に耳を傾け、振り返ってわが若き時代にきわめて安易に使ってきた青春の驕(おご)りを恥じる気持ちが強い。


「活年らいふの会」
「いいトシをして」……ナマッポイ、若づくり、ダンス、英会話、運転、カラオケ熱中etc。軽侮と否定的、否定的非難をさらりと受け流すとともに、お互いがジョークは別 として自嘲的に使うことは慎んで、「いいトシをして」を「いいトシだから」に読み換えるだけでも、挑戦意欲が湧いてくるのでは……。