空の巣になったW氏夫妻の会話。

「○○の桜の満開は8日頃とのことですがでかけませんか」

「いつもと同じだろ、あらためて観にゆくこともあるまい」

「沈丁花の香りがきつくなると、桜の蕾がふくらんできます。桜前線の便りを楽しみにして、五分、七分咲きをながめ満開の華やかさと、パッと散るいさぎよさが好きです」

「Sさんから筍が届きました。そのメッセージに、地域の開発がはじまり来年あたり引っ越すことになり今年で最後になりそうです。土の乾かぬ間の新鮮さがとりえですので、お早めに召し上がってくださいとありました」

「この前でかけたとき、電車の中でウイークデーにもかかわらず子どもや、若者が一杯おるんだよな」

「あなたなにを言っているんですか。いま春休みですよ」

これは、2人の子どもは独立し、夫婦2人きりになったW夫婦からの採録である。

仕事オンリーできたW氏は育児にかかわることはなくても、子どもの卒業式、入学式、始業式などの行事で春を知り、夏休み、冬休み、春休みでそれぞれの季節をそれなりに感ずることができた。

3月になれば年度末決算、4月1日の新入社員の入社式、ベースアップの春闘、4月新番組のスタートで春を、夏はボーナス闘争で、秋は下期の番組新編成、冬は年末手当闘争と、仕事にまつわる歳時記のくり返しであったが、それぞれの季節を感じて緊張と緩和を保ってきた。

そのW氏が、子どもは巣立ち、定年で組織を離れたあと、いままでなんとなく感じてきた季節感の媒体を失うことによって、生きる折り目、節目まで見失ったことが、かみ合わない奥さんとの対話からうかがえる。

「せめて身の回りでも自分でやれば、衣替えで季節を感じて外にもでかけるのでしょうが」

という奥さんの嘆きを聞けば、かつての頑張り屋のW氏が、日々漫然と無為に過ごしている様子に心が痛む。自然の四季は、春、夏、秋、冬とめぐるが、自分の四季は「自ら創るもの」で一回限りである。W氏、眼を覚まして「一日即一生」の気概をもってほしい。