「定年」と「停年」を使いわけよう

某日仕事の都合で温泉地に一泊の機会を得た。ウィークデーに出会う方々は元気印の活年ご婦人グループ、活年夫婦で占められる。団体客向けホテルのせいか、6人部屋に1人わびしく寝る羽目になった。

翌早朝、露天風呂に下りていくと同年輩の先客がおられ、「おはようございます」と挨拶して、どちらからともなく「お一人ですか」と問いかけ合い、自然に裸の風呂談義がはじまった次第。

まず彼氏の質問。「あなた、まだ現役ですか?」。小生「そうです」。「私と同じ年頃のようですが、うらやましいことです。私は55歳定年の2年前に取締役となり、3期勤めて関係会社で役員5年。まだまだ働ける自信がありながら、後進に道をということで退任させられました。数年前に連れ合いを亡くし、やることがないのでカメラをもって歩いています」。

口数が少ない方とは思えなかったが、「子ども夫婦との対話もなく、ときおり失語症になるのではないかと不安にかられます。あなたはまだ現役とのこと、定年はないのですか?」「もちろんありますよ。しかし、いわゆる定年を迎えて考え方を変えました。私たち若い頃は定年ではなく停年でしたね。長い間なじんでいた『停年』が『定年』になったのはいつ頃からでしょうかねえ」

言葉遊びではないが、年が停まることは自然でなんとなく強制感がないが、実質的解雇通告制度とみると「定」の方がふさわしい。ということは自分の意思に関係なく他人が決めたことである。そして人生80年時代、「定年」論議は真っ盛りである。

私がいまだに現役であるという意味は意地や構えではない。

自分の人生は一回限り。長い間には自律的他律的要因で折り目節目があるが、他人が決めた制度としての定年時に、自分の年が停まるまで充実した生き甲斐のある人生を他人様ともども歩き続けようと考えた。

人生には停年(人生の終焉)はあっても定年はない。せっかく他人様がつくった定年、人生の節目の中では大きなイベントと受けとめ、自作自演のドラマ仕立ての機会を与えられたとすれば、一人旅のうら寂しい影もなくなるだろう。