「老害」とは

5月、6月は各企業トップの人事の季節である。経済誌や新聞の経済欄は、競馬の予想なみに本命、対抗、穴と、憶測と期待をないまぜて紙面をにぎわせる。評論家にとっては建前と内幕ものと素材にこと欠かない楽しい季節であるが、話題の会社員にとっては、会社とわが身の命運がかかっているだけに、期待と不安に揺れ動く季節である。

実力会長は、社長は、居座りか、交替か。そのときはだれが。年功序列か。抜擢かなどなど、噂が飛びかい、一喜一憂する。そして話題を提供するのは、実力会長と目されるお年寄りの留任である。

評論家氏によれば、オーナーでもなく大株主でもなく、激しい権力争いの結果手にいれた地位ならば、それをいかに維持していくかという執念はすさまじいものである、と。このような人物に共通する考え、キャラクターは、まずは過去の業績自慢にはじまり、後継者が育っていないことや、政財界との人脈を言挙げして続投の理由とし、保身のために茶坊主の甘言に耳を快くして忠言を退けていることである。最も大切な人事を、人物、能力ではなく、好き嫌いと自分の意のままに動く人間を重要視する。結果はシラケムードが溢れ、活力を失い、業績低下となる。

恐るべきことに、そのような種を蒔いたことは棚上げして、自己の無謬性(むびゅうせい)を主張してトカゲの尻尾切りでことを済ませる。

「老害」とは辞書のどこにも見当たらない。ということは、「老」は「害」ではないからである。

人事の季節になると「老害」がしばしばマスコミに登場するのをみると、権力にまつわる「老」の人が周辺に及ぼす害毒であると思われる。国にしろ企業にしろその他にしろ、集団が組織化すれば権力構造が生まれ、権力の座がしつらえられる。権力は麻薬であるといわれるが、それに溺れない人が多々あることも、歴史や世間をひろく顧みれば事実である。

「老害」が普遍性をもって辞書に掲げられないよう、謙虚で優しくしなやかに生きて、愛される「老」を送りたいものである。