小林すみ江(静岡県細江町)50歳
 
私の住んでいる静岡県の細江町は浜松から北に15キロほど、浜名湖の奥にある町です。

名物と言えば、もちろん鰻。あとは楽器メーカーなどの工場や研究施設がいくつか。他にはこれといったもののない、田んぼや畑の広がるごく普通の田舎町ですが、浜松市街からそう遠くもなく、暮らすにはなかなか居心地の良いところです。生まれ育った浜松の市内から越して来て20余年、今ではすっかりこの土地に馴染みました。地域の婦人会などの活動を通して、尊敬できる先輩や友人を得ることもできました。

家族は6人。鉄工所を営む父と母、幼稚園向けの遊具や本の販売を仕事とする主人、それに息子と娘という構成です。実は娘は去年結婚したんですけど、毎日父の工場へ仕事に来ているので、嫁に出したという感じはあまりしない。娘の他に私の妹も工場に来ているので、毎日賑やかな声が絶えません。

私はといえば、平日は鉄工所の手伝いをし、土日は地域の活動などに当てています。 こんな調子ですから、主婦業の方はちょっと手抜き。まあ、子どもも手を離れたし、家事にそんなに多くの時間を割かなくて済むようになったということでしょうか。

こうしたなかで、この8年間続けているのが、高齢者支援の会である「はふりだ会」です。高齢者支援などというと仰々しいけど、早い話、地域のお年寄りの方々に集まっていただいて、食事をしてもらったり、演芸を見てもらったり、お喋りを楽しんでもらったりという交流会のようなものです。

言い出したのは、婦人会で支部長をした人たちや区長などを務めていた仲間たち。私たちの細江町祝田(ほうだ)地区には、以前から老人会はあったけれど、楽しみの会はなかった。そこで、半径500メートルくらいの歩いて来られる距離にお友達がいた方が、お年寄りの方々も元気になるんじゃないかな、という考えから会を発足させることにしたんです。「遠くの親戚よりも近くの友達」というわけです。

で、福祉に詳しい仲間が町にかけあうと、役所の方でもそれはいいと賛成してくれた。場所は地区の公民館を使い、補助金も出ることになりました。 問題は、会が発足したとしても、お年寄りが来てくれるかどうか。ただ「来てください」と言っても、人は集まるものではありません。やっぱり何か楽しみがなくては来ない。そこで思いついたのが食事に演芸、というわけで、料理は1回につき500円の会費や年間20万円の助成金から材料を揃えて出すことにした。演芸の方は、地域の歌や踊りの愛好者をお招きする。会を開くのは、月1回、第2土曜日。会の名前は祝田の古い呼び名である「はふりだ」とすることに決めた。そうして、平成6年の4月から活動を開始したんです。

 
集まった会員さんは約45名といったところ。75歳以上の方がほとんどで、なかには90歳という方もいました。私たちボランティアは20数名。みなさん忙しいので、常時来るのは12、3人。買い物は当番を決めて買い出しに行きます。

料理はやっぱりお年寄りが相手ですから、魚や季節の野菜を中心に献立を考えます。おかずは噛みやすいようになるべく細かく切って、やわらかくする。味つけはボランティアのみんなで味見しながら決めている。得意料理を教えあったり、なんてこともあります。

ボランティアには料理の上手な方もいれば、掃除の得意な人もいる。これといった才能のない私は、使い走り。始めた当時は40代といちばん若かったから、せっせと動きました。私の誘った友人たちも含めて40代のボランティアというのは町では珍しい。8年も続いているのは会長の内山いち子さんら年齢が上の先輩たちが若い私たちをうまく引っ張ってくれているからだと思います。男性のボランティアの方も3人ほどいらして、何かと気を使ってくださっています。とかく女同士だとちょっとしたことで揉めたりしますからね。そんなとき、男性の目があるというのは助かります。

演芸は、歌に踊り、詩吟などさまざま。毎回、地元のつながりでいろいろな方に来ていただいています。 でも、毎度同じパターンでは飽きられてしまう。だから、4月はお花見、8月は野外でと、変化もつけています。9月だけは敬老の日もあるのでお休み。年に1度のボランティア同士の交流会にして、温泉などに出かけます。ボランティアもこうした楽しみがないと長くは続かないものです。

お年寄りの参加率は、平均して8割くらいでしょうか。40数名のうち、だいたい毎回5人から10人はお休みになられます。みなさんさすがにお年ですから、2、3カ月続けて来なくなるとお葬式になったりする。そういうことが今までにも何度かありました。悲しいけれど、亡くなる少し前までは友達と笑っていられたのだと思えば、家で何年も寝たきりになって死んでいくよりは幸せではないかと、みなさんそう解釈していらっしやいます。



 
それにしても、ただの主婦でもこうして地域の活動を続けていると、さまざまな出会いや勉強の機会があるものです。1昨年は主人が自治会の班長になったので、回覧物を作るのにコンピューターの勉強を始めました。商工会のパソコン教室で出会った方とは、今ではメール友達です。

昨年は、驚くような幸運にも恵まれました。長くつきあいの途絶えていた父の従兄弟と連絡がとれたんです。相手が住んでいるのはアメリカのシアトル。もうあちらもお年のはずですし、このままでは会えずじまいで終わってしまう。そこで、ちょうど母方の従兄弟がニューヨークに転勤になるというのでさがしてもらったんです。

今考えると、私は東海岸のニューヨークと西海岸のシアトルがどれほど離れているかも知らなかった。それでも従兄弟は休みをとってシアトル中を駆け回ってくれて、とうとうその方の居場所をつきとめてくれたんです。

そんな縁で、昨年の5月には妹と2人でシアトルに行って来ました。父の従兄弟ジョージさんやその奥さんはアメリカ育ちで日本語をほとんど忘れていましたが、私があまりに英語が話せないものだから、2人とも遠い記憶から日本語を呼び戻して話してくれました。別れ際の約束は「今度は英語で話しましょう」。こういうこともあって、今は英会話の勉強もしているところなんです。

たいした取り柄もない自分ですが、もし良いところがあるとしたら「お人よし」なところでしょうか。この性格は、両親の育て方のおかげです。父も母も、私には「あれをやっちゃいけない、これもやっちゃいけない」ということはいっさい言わずに接してくれた。そのおかげで、私は劣等感のあまりないおおらかな人間になることができた。なんの力もない私がこうして外に出てもなんとかできちゃうのは、そういう性格だからに違いありません。これに気付いたのはつい最近、50歳になってからなんですけど、あらためて両親に感謝しています。

私のまわりには「あの人のように生きたい」と思わせる素敵な方がたくさんいます。こうした方々との出会いこそが幸せなのだと感じています。私にできることはといえば、お返しをすること。お人よしですから人に喜ばれるのが大好き。人に喜ばれる人間になりたいというのが私の願いですね。つい最近は、民生委員にもなった。忙しくて目がまわる毎日ですが、精一杯生きていく楽しさを味わっています。