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(上)毎年恒例になった「お花見会」です。(下)協力なスタッフが脇をかためています。 |
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仕事ではなく、ボランティアとして料理に携わるようになったのは、やはり食品メーカーに勤める夫の転勤で札幌に引っ越してからだった。転居先は札幌市内の南側に位置する豊平地区。東京や信州で見る食材とはひと味違う北海道の産物に料理家の血が騒いだ。近所の人たちを集めて「百円料理教室」を開いた。これが人気を集めた。みんなで地主から畑を借りてトウモロコシやジャガイモを栽培した。ときには夫が手伝いに来てくれることもあった。 農家の出身だった夫にとっても畑仕事は慣れているし懐かしいものだった。採れた作物はふかして草野球の大会などで振る舞った。料理教室ではひとつの素材をもとに、様々な料理を作った。参加者はみんなそのバラエティーの豊富さに驚いてくれた。男性向けの料理教室を開いてみると、これも好評だった。現在も小林さんは定年退職した男性たちを対象に「活年男性料理教室」を開いているが、その素地はこの札幌時代に出来たものだ。 東京に戻ってからも活動はつづいた。仕事として、保育園や小学校の栄養士を務めた。スカウトされる形で入った江東区の保育園ではゼロ歳児向けの離乳食を担当した。離乳食とひと口に言っても、前期、中期、後期と、段階別に分ければかなり細かくなる。当然、知識も工夫も必要だ。栄養士の資格を持っているとはいえ、資格は資格以上のものではない。仕事をしながら勉強をし、現場に合ったスキルを身につけていった。 保育園の仕事のかたわら、10年ほど前に『ユキクツキングスタジオ』を開校した。住んでいた江戸川区からは増えてきた外国人居住者向けに料理教室を開いてほしいという要請があったし、仕事や活動の比重を教室に移すことしにた。クッキングスタジオは普段は自宅で、人数の多いときは施設を利用して開いた。 そうこうしているうちに始まったのが『にこにこ会食会』だった。 会食会は、始めてみるとすぐに交流会であることに気が付いた。夫の両親を引き取ったのは義父がバーキンソン病を患っていたからでもあったのだが、病気や家庭内の問題などを抱えているのは自分たちだけではないことがわかった。長年連れ添った夫が病気で倒れ、動転している奥さん。自分が脳梗塞に襲われ、リハビリ生活を余儀なくされた栄養士の元同僚。そうした人たちにとって、悩みを打ち明ける相手がいるということはそれだけで気休めになる。たとえ健康でも孤独な人も多い。何十年も同じマンションに住んでいながら、「会食会に参加して初めてよそのお宅にお邪魔したわ」という人もいた。こうした人々の集まりだからこそ、小林さんは感じた。 もっと、にこにこと元気にならなくては。 だから、会の名前を『にこにこ会食会』とした。みんなでわいわい料理を作って、にこにこと笑いながら食べる。料理だけではなく、歌や踊りなど、それぞれが得意とする出し物も始めた。ますます会は盛り上がるようになった。締めは小林さんの仕事だ。 「にこにこ人生頑張ろう!」 高らかにそう謳い上げ、みんなで万歳する。これだけでなんだかとても元気になる。それともうひとつ、こうした会の終わりには小林さんは自作の詩をプリントしたものを参加者に配る。「詩はあとから何度でも読み返せるし、胸に入ってくるもの」だからだ。こういつた心配りもまた、『にこにこ会食会』が大勢の人に支持される理由なのかもしれない。 |
(上)活年男性料理教室の皆さんと。(下)子ども料理教室です。 |
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高齢者の生き甲斐づくりに貢献している小林さんだが、子どもたちや若者の存在も忘れてはいない。むしろ、最近ではそちらに力を注いでいる。 |
(上)『にこにこ会食会』は年4回の大イベントになりました。食べ終わったら皆でバンザイ三唱します。 (下)『ユキクッキングスタジオ』は笑顔が一杯。 |
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料理研究家として小林さんが心がけているのは「五味」「五色」「五法」の料理だ。
『にこにこ会食会』(ユキクッキングスタジオ) |
(上)会食会の後は、自作の詩の朗読、(中)踊り、(下)音楽会で楽しみます。 |
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