鎌倉時代末期、遁世者・兼好法師によって書かれた『徒然草』は、日本古典文学の中の名随筆として、古来、多くの人びとに読み継がれてきました。この作品には、作者の深い人生観照に基づいた、この世の諸相に対する感想・批評などが自在に語られていて、興趣が尽きません。そこで、この『徒然草』の中から、現代の私たちが味わってみてもよさそうなものを採り上げて、考えてみましょう。
『徒然草』第十八段は、次の文章で始まります。

人はおのれをつづまやかにし、おごりを退けて、
財(たから)をもたず、世をむさばらざらんぞいみじかるべき。
むかしより、かしこき人のとめるはまれなり。

ここの意味は、「人間は自己を質素・倹約にして、ぜいたくを遠ざけ、世間の名誉・利益をむさぼり求めないのが立派なことであろう。古来、賢人と言われる人で富裕であるのは、稀なことである」となりましょう。

ここには、兼好法師の考えた理想的人間像の一端が示されています。即ち、飽くことなき欲望に心身をゆだね、ぜいたくを極め、欲望の達成のために休む暇もない、多くの一般 の人びとの在り方とは対極にある、世俗の欲から離れ、質素・倹約の生活の中に自己を見つめる在り方が主張されています。

この第十八段は、続いて、ここに示した理想的な人間の在り方を実践した前例として、中国古典の中の『蒙求』という書物に載っている、許由(きょゆう)と孫晨(そんしん)という、清貧に徹した古代中国の2人の賢人の話を紹介します。許由は、中国の古代の堯帝の代の人物ですが、無一物の清貧に甘んじた生活をしていて、水を飲むにも両手で水をすくって飲んでいたので、ある人が、水を容れる器として、「なりひさこ」【ひょうたん】を与えた。ある時、許由は、このひょうたんを木の枝に掛けておくと、風が吹いてきて音をたてた。許由は、この音を騒がしいとして、ひょうたんを捨ててしまったという。また、孫晨は、これも極貧で、寒い冬に夜具が無く、藁(わら)一束をその代わりにして寒さを防いだという。兼好法師は、前者が、ひょうたんを捨ててしまったことに対して、「いかばかり心のうち涼しかりけん」【どんなにか、その心の中は、すがすがしかったことであろう】と評して、兼好自身も許由の行動に同意・同感を示しています。そして、この段を結ぶに当たって、「もろこしの人は、これをいみじとおもへばこそ、しるしとどめて世にもつたへけめ、これらの人は、かたりもつたふべからず」と記しています。つまり、中国の人たちは、許由や孫晨の振舞いをすばらしいと評価したからこそ記し留めたのであろうが、わが国の人たちは、こういう清貧を貫いた人物を評価しないので、語り伝えることもしない、と述べているのです。

ここには、兼好法師の生きた時代、即ち、鎌倉幕府が滅亡し、後醍醐天皇による建武中興を経て、南北朝の内乱に入るという動乱の時代において、下剋上(げこくじょう)の風潮がはびこり、従来の価値観が変動し、人間の欲望が大きく前面 に押し出され、奢侈(しゃし)【過度のぜいたく】の横行する当時の世相に対する作者兼好の厳しい現世批判が内在しているとみることができます。こういう状況は、物質文明繁栄の中で、欲望の達成を優先し、そのために富の形成に力をそそぐ現代人の在り方とも共通 するものがあるようです。“消費は美徳”という時代の去った今、少しでも欲望から自由になり、質素・倹約、清貧の価値を見直すこと、このことが、「物が栄えて心が滅ぶ」という現代人の危機を救う一つの手だてになるのではないでしょうか。そして、私たちも、いつも「心のうち涼しき」状態でありたいものです。