私たちが日々の生活を過ごしてゆくなかで、通 常は時間というものについて、特別に意識することもなく、その日その日を送ってゆくのではないでしょうか。ところが、年の暮れになり、1年を振り返ったとき、その1年の何と速やかに過ぎ来ったかに驚き、時の経過の速さを実感するということは、ほとんどの人が経験していることと思います。 私たちの人生は有限ですが、この有限なる人生と時間との問題は、古今東西、人間にとって、たいへん重要な課題となっています。このことについては、『徒然草』の作者・兼好法師も重大な関心を寄せています。『徒然草』第一〇八段では、まず、

刹那(せつな)覚(おぼ)えずといへども、
これを運(はこ)びて止(と)まざれば、
命を終ふる期(ご)忽(たちま)ちに至る。

と述べています。ここでは、「刹那」(極めて短い瞬間の意)という、ほんのわずかな時間の経過は意識しなくても、このわずかな時間の経過が止むことなく続いて、たちまち命終の時期が到来すると言っています。私たちが日々の生活を重ねる、その究極に避けることのできない死が待ち構えていることは、何ん人(びと)も否定できない、純然たる、この世のありかたですが、兼好法師も、まず、この実態を直視しているわけです。ここには、この世に存在する万物は、瞬時も止まることなく移り変わっているという仏教の無常思想に根ざした、兼好法師の人間観がよくあらわれております。兼好法師は、無常なる存在である人間の実態を直視し、人間における無常の究極、即ち死の到来の速やかに訪れることと、その死の到来時の予測し難いことを特に強く意識しています。つまり、人間における無常の到来の迅速性・不可能性に立脚した無常観のもとに人間を厳しく見つめているわけです。そして、こういう兼好の無常観からは、刹那を無駄 にすることなく、これを愛惜(あいせき)し、大事にする生き方が切実に求められてきます。 ところが、同段では、「寸陰(すんいん)惜しむ人なし」と断じ、「寸陰」<「一寸の光陰」の略で、わずかな時間の意>を愛惜し、大事にする人の現実にいない実態を鋭く指摘します。人間怠惰の本質を衝(つ)いた、この断言が万金の重さをもって迫ってくる感を覚えるのですが、ここにこそ人間の問題があるわけですね。ところで、こういう人間の本質に対する厳しい省察に立った兼好は、ここで、生命無常の現実にいかに生くべきかの指標を提示します。

されば道人(どうにん)は、遠く 日月(にちぐわっ)を惜しむべからず。
たゝ゛今の一念(いちねん)、空(むな)しく過ぐることを惜しむべし。

<「道人」、即ち仏道修行を志す人は、漠然と先の日月を惜しんではならない。いま現在の「一念」(一瞬間の意)が空しく過ぎることを惜しまなくてはならない>というのです。ここでは、当面 、「道人」とありますが、これは、志を立てる人すべてに通用するものとも考えられます。まさに、「たゝ゛今の一念」こそが重要であり、これをいかに過ごしたらよいか。ここには、このことに対する、まことに明確な指標が示されております。
第一〇八段は、さらに語ります。

もし人来(きた)りて、我が命、 明日(あす)は必ず失(うしな)はるべしと 告げ知らせたらんに、
今日(けふ)の 暮るゝ間、何事かを頼み、何事かを営まん。
我等が生(い)ける今日の日、何ぞ その時節に異ならん。

私たちが生命の灯を燃やして生きる今日というこの日の、実は人間不可避に到来する命終の、まさにその時と何ら異なるところはない、というこの認識……生命無常の頂点に立つ、心をゆさぶる、この衝撃的な認識は生きていまここにある、この生命の、まさにかけがえのない切実さ、重大さを強く訴え、惰眠からの覚醒を求めて止みません。
怠惰に支配され易い私たち人間にとっては、たいへん難しいことではありますが、「たゝ゛今の一念」を愛惜し、これを生かす日々が送れれば、どんなにすばらしい人生となることでしょう。「たゝ゛今の一念」を空しく過ごさぬ よう、これを愛惜し、大事にしようではありませんか。