私たちが何か物事を成し遂げようとするとき、その物事を達成するための内的、外的両面 にわたる諸条件を整えて当たることが重要ですが、特に内的条件の整備の如何が、事の成否の鍵となる場合がしばしばあります。内的条件、即ち、「心」とか「精神」のありかた如何が事の成否に大きくかかわってくるわけです。外的条件が十分に整っていても、その条件を活用するところの「心」が作動しなくては、何も始まりません。では、どのような「心」のありかたが、最も有効なのでしょうか。  

このことに関して、兼好法師が『徒然草』第九十二段において、つぎのように述べていることが注目されます。

ある人、弓いることをならふに、もろ矢をたばさみて的に向かふ。師の言はく、「初心(しょしん)の人、二つの矢を持つことなかれ。後(のち)の矢をたのみて、初めの矢に等閑(なほざり)の心あり。毎度(まいど)ただ得失(とくしつ)なく、この一矢(ひとや)に定(さだ)むべしと思へ」といふ。わづかに二つの矢、師の前にて一つをおろかにせんと思はんや。懈怠(けだい)の心、みづから知らずといへども、師これを知る。このいましめ、万事(ばんじ)にわたるべし。

ここでは、ある弓を習いはじめの人が、二本の矢を手にはさみ持って的(まと)に向かったところ、師匠が「初心の人<習いはじめの人>は二本の矢を持ってはならない。後の矢を頼みにして、最初の矢に対して「等閑(なほざり)の心」<おろそかにする気持ち>が起こる。だから、射るたびごとに射損ずることなく、この一本の矢で必ず的に射当てようと思え」と注意した。たった二本の矢で、しかも師匠の面前で、最初の矢をいいかげんにするはずはないが、師匠は、「懈怠の心」<怠け心>という、初心者の微妙な心の動きを見抜いているわけで、この戒めは、単に弓道に限ることではなく、人間の諸事万般に通用することである、というのです。

弓道では、「もろ矢」<諸矢>、即ち、甲矢(はや)と乙矢(おとや)の二本の矢<一手矢(ひとてや)ともいう>を持って的に向かうのは、通 常の方式です。初心の人が、二本の矢を持って的に向かったということは、当然であったわけです。それにもかかわらず、師匠は、「初心の人」にあえて先のような指導をしているのです。道に達した師匠の、「初心の人」に対する心理的洞察の的確さと指導者としての教育的配慮とがみごとに行われている話ですね。

さて、この話には、物事を成し遂げるための心構えとか、集中力を高めるための心のありかたが、端的に示されているように思います。とかく私たちは、物事を成すに当たって、一所懸命にやっているつもりでも、これが駄目なら次があるという気持ちをどこかに内在させ易く、徹底した集中力をもって事に当たることは、たいへん難しいものです。どこかで「後」を頼み、無意識のうちにも「等閑の心」や「懈怠の心」が生じ、いま現在のこの事に集中しきれないことが多いのではないでしょうか。後があるという意識が潜在するかぎり、いま現在のこの事に完璧に集中して当たることは困難です。そこで、この「後」を頼む心を遮断し、これしかない、後がないと思いきることによって、集中力が高まり、その結果 、物事が成就することになるわけです。このようにして、「後」の意識を遮断して、今現在の一事に集中することが、物事を成就するための肝要事であることになります。たしかに、ここで言っていることは、弓道の修得に限ったことではなく、人間の諸事万般に通用することで、貴重な戒めとして、心に留むべきことですね。

「この一矢に定むべし」……事に当たって、思い起こそうではありませんか。