『徒然草』には、人間の心を見つめ、そこから人間の在り方を思索するという特徴がみられます。そういう中で、第一三○段では、人間の競争心に着目し、これをめぐって考え、一つの人間の在り方が提起されます。この段では、最初のほうで、

よろづの遊びにも、勝負を好む人は、勝ちて興(きょう)あらんためなり。己れが芸のまさりたることを喜ぶ。


と述べます。<いろいろの遊びにおいて、勝負事を好んでやる人は、勝って面白がりたいためである。自分の芸の力が他の人よりもすぐれていることを確認して喜ぶのである>というのです。ここでは、人間に内在する競争心に触れ、勝負に勝つことを好む心理が指摘されます。この段は、続いて、負けることの面白くないことや、相手のために意図的に自分が負けると遊びそのものが面白くなくなることを述べ、勝負の遊びは、結局、「人に本意(ほい)なくおもはせて、わが心を慰まんこと」、即ち、人に不快感を与えて、自分の心だけを満足させることであるとし、さらにこれは、「徳にそむけり」として、人間の守るべき道徳に背反するものとして、指弾されます。また、

睦ましき中に戯(たは)ぶるるも、人をはかり欺(あざむ)きて、己れが智(ち)のまさりたることを興とすごれまた、礼にあらず。

とも述べて、<親しい者どうしで冗談を言い合うにも、他の人を企みだまして、自分の智恵が相手よりまさっていることを面白がる。これは人間の礼儀からはずれたことである>と批判します。そして、初めは遊興酒宴の時の冗談が原因となって、いつまでも続く遺恨を心に残す例の多いことに触れ、「これみな、争ひを好む失なり」として、人間が勝負事を好むことの弊害であると結論づけます。

このように『徒然草』では、人間は本来、競争心が強く、勝負に勝つことを好む心理のあることを見すえ、勝負のかかわる、どんな遊びでも、また冗談を言い合う時でも、他の人に勝ち、また、自分のすぐれていることを誇示しようとするものだが、そのことは道徳や礼儀に反することで、勝負事を好むということの弊害であるというのです。

さて、人間が他の人に対して自分を優位に保ちたいというのが、人間心理の本質にかかわるものとするならば、この心理に対し、どのように対処したらよいのでしょうか。兼好法師は、第一三〇段を結ぶにあたって、以下のように述べます。

人にまさらんことを思はば、ただ学問して、その智を人にまさらんと思ふべし。道を学ぶとならば、善に伐(ほこ)らず、輩(ともがら)に争ふべからずといふことを知るべき故なり。大なる職をも辞し、利をも捨つるは、ただ学問の力なり。

<他の人よりすぐれようと思うなら、ひたすら学問をして、「智」(学才)を他の人よりもすぐれさせようと思うのがよい。「道」(物事の道理)を学び知るならば、自分の長所を自慢することなく、また、仲間と争ってはならないということを知ることができるからである。大きな職をも辞退し、利益をも捨てることができるのは、ただ、学問の力によってである>というのです。他の人との競争が許されるのは、学問をして学才においてすぐれようとする場合だけであるが、学問をして物事の道理を学べば、勝負にこだわる競争心の愚を悟り、勝ち負けの価値観から解き放たれ、その結果、現世的な価値として誰もが求める大きな職とか利益をも捨てることができる、と説いているのです。

人間は誰でも立身出世を目指し、大きな職や利益を求めるものですが、そのことのためにのみ、限りある生命を使い果たしてしまいがちです。時には、名誉や利益を超えた境地で真の心の安楽を達成することが、たいへん重要なことではないでしょうか。そのためには、「大なる職をも辞し、利をも捨つる」 ことが求められることもあります。その時、「学問の力」が効力を発揮します。「大なる職をも辞し、利をも捨つるは、ただ学問の力なり」。銘記すべき歳言と言えましょう。  (完)